2012.02.06 Monday

記憶と空間の距離

Patrick Faigenbaum
「近くて遠いパリ 1972-2011年」

Musée de la Vie romantique
2011/09/27-2012/02/12

16 rue Chaptal 75009 Paris
メトロ:Pigalle, Blanche, Liège, Saint-Georges
開館時間:火-日 10-18時
月曜日休館
入場料:一般 7ユーロ、割引 5ユーロ

パトリック・ファイゲンバウムは1954年にパリに生まれ、画家を目指した後に最終的に写真を表現手段に選びました。ポートレートを中心に作品を作ってきましたが、近年は都市の表象に焦点をあて、ヨーロッパの都市の「顔」を撮り続けています。

パリに生まれ、育った写真家にとって「近くて遠い」パリ。それは地理的な距離感だけではなく、個人的な記憶および感覚と結びついた心理的距離感を意味します。

展示は直線的な時間軸に沿ったものではなく、現代のパリの街角、写真家の母親らしき年老いた女性を目にした後で、ふいに1970年代のパリの街角へと引き戻され、そしてまだ若い写真家の母親のポートレートを眺め、ひととき時間を遡った後にまた現代のパリ、パリ郊外の風景の写真へと戻ってくる構成になっています。時間と空間を行きつ戻りつしながら、絵画を意識した非常に静かでかっちりとした構図の写真の行進の前に佇んでいると、静物画のような果物の写真、萎れた花の写真が人物と都市のポートレートの列の合い間に混じり込み、ベッドに横たわる年老いた母親を近距離で撮影したモノクロームの写真が静かな静物画であるような錯覚に襲われます。しかしそれは悲しい感情ではなく、レンズの前のありのままの存在を尊重した厳かな静けさです。

最初は画家を目指していたという経歴が納得させる、絵画のように撮った写真が多く、非常に丁寧に構図が作り込まれています。人が行き交う都市や郊外の味気ない風景でもそれを成立させるというのは、難しい作業なのだろうなと思います。そのうえで、絵画とは違い現実をそのままに写し取り、主観的な感情から距離を置きつつ、そこに詩的な叙情を漂わせることに成功している。ピクトリアリスムの系譜に連なりながらも現代的な表現を形成し得ているのが、評価されるゆえんでしょうか。

パッとみてはっとさせられるような写真ではないですが、後から静かに記憶の中に浮かび上がってくるような、静謐な、理知的な写真です。


2011.12.11 Sunday

パウル・クレー展 2つのポリフォニー、音楽と絵画

Paul Klee Polyphonies

2011/10/18-2012/01/15


Cité de la musique

メトロ:Porte de Pantin (5番線)

開館時間:火曜日-土曜日 12-18

     日曜日 10-18

入場料:一般 8ユーロ 割引 5ユーロ

※ 12月25日と1月1日は休館



パウル・クレーの絵画と音楽の関係に焦点をあてた展覧会が、シテ・ド・ラ・ミュージックで開催されています。

シテ・ド・ラ・ミュージックという施設はその名の通り、音楽を専門にした文化施設で、パリの北東、サンマルタン運河沿いのラヴィレット公園にあり、コンサートホール、音楽の図書館の他に、音楽の美術館を併設しています。2009年に改築された美術館の常設展では、四世紀に渡る西洋音楽の歴史を楽器の展示とともに振り返ることができるほか、世界の主要な音楽の概要も紹介。常設展に加えて、年に二回の企画展が開催されています。


この音楽専門の美術館で画家を扱う展覧会を催すのは初めての試みだそうですが、その最初の画家にパウル・クレーを選んだというのにも、クレーの作品の音楽との深い関係を考えると納得がいきます。

クレーは音楽家一家に生まれ、自身も早くからヴァイオリンを習い、画家の道を選んだ後も、ヴァイオリンを弾き続けました。ミュンヘンの美術学校で、イーゼルを譜面台にし、友人達との5重奏でヴァイオリンを担当するクレーの写真が残っています。

バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームスを好んで演奏し、とりわけバッハのポリフォニー音楽とモーツァルトのオペラに深い影響を受けたようです。著作では、これら大作曲家の音楽への考察はもちろん、同時代の作曲家にも言及していて、クレーの深い音楽的教養を伺い知ることができます。



2010年にオランジュリー美術館が開催したパウル・クレー展ではスイス、バーゼルのバイエラー・コレクションから作品が貸し出されていましたが、この展覧会では主にベルンのパウル・クレーセンターから、豊富な作品と資料が貸し出されています。


「ポリフォニー」をテーマとして、音楽専門の美術館らしくクレーが聴いた音楽の性質に焦点をあてながら、クレーの絵画における記号の多層性を分析し、表現手段の異なる絵画と音楽の共鳴という非常に複雑で大きな問題に果敢に向かいあっているのが素晴らしい。

目玉は、クレーが聴いて影響を受けた音楽をオーディオガイドで聴けるということ。モーツァルトやバッハを聴きながら、性質の異なる複数の造形言語が画面上で共鳴し合って音楽を奏でているようなクレーの絵画を鑑賞することができるというのは、なんとも至福のひとときです。


2011.12.07 Wednesday

パリ・フォト2011 レポート No. 3

今回のPARIS PHOTOでは、会場の奥にPLATEFORME: MUTATIONSという講演会スペースが設けられており、会期中4日間に渡り、多数の写真家および写真の専門家を招いたカンファレンスが行われていました。入場無料で、英仏および仏英の同時通訳が聞けるヘッドフォンを貸し出してくれます。

1日に1時間半のTable ronde(討論会)が2回、Vue d'artiste(「アーティストの視点」写真家による作品紹介)が1回、アーティストによるパフォーマンスが1、2回。日ごとにテーマが設定してあり、1日目が「地理」、2日目が「技術」、3日目が「社会とメディア」、4日目が「身体」で、各テーマの中で写真について語る、という趣向。コミッショナーは女性美術批評家シャンタル・ポンブリアン。



私が聞いたのは身体と写真をテーマにした討論会の一つ。4人の写真家Valérie Belin(活動拠点:パリ), Sunil Gupta(ロンドン), Vlatka Horvat(シェフィールド), Zanele Muholi(ケープタウン)を招き、パリ第8大学の社会学教授Laurent Jeanpierreが司会。討論会の仰々しいテーマ、「現代のグローバル化における地理と技術の変化は身体を新たな次元へと迷い込ませたが、芸術においてその現象はいかに表現されているか」に対して、各写真家の選んできた写真は厳密にはテーマに合致していない気がしましたが、身体表象のバリエーションとして興味深かったです。身体をテーマにした自分の写真を各写真家がスクリーンに写し、自分の写真にとって身体とはどういう意味・役割を持つか、どういう思考がそこに働いているかを説明。Sunil GuptaとZanele Muholiが扱っているのはホモセクシュアリティ、Valérie Belinはポートレート、Vlatka Horvatは空間の中の身体表象。


Vlatka Horvat(イギリス、シェフィールド)の作品はコンセプチュアルで、写真という2次元表象の限界を逆手にとりながら、空間とその中の身体の関係が表現されています。

(写真家のサイト:http://www.vlatkahorvat.com/ 

例えばHidingObstructedシリーズを参照)

Valérie Belin(フランス、パリ)が選んできたポートレートは、特に顔に焦点をあて、あるコンセプトのもとに一連のポートレートを撮ってシリーズにしたもの。精巧なマネキンを撮ったものは光の加減やテクスチャーから見れば見るほど生身の人間の顔ではないかと思わせ、一方で、黒人の女性を真正面から撮ったシリーズは造形的な均衡から彫刻を思わせる。ポートレート写真というジャンルに軸をおきながら、そのジャンルの境界そのものを揺さぶり、現実とフィクションの狭間で綱渡り師のようにバランスをとっている。写真そのものが魅力的かどうかは別にして、その試みは面白いです。

(写真家のサイト:http://www.valeriebelin.com/

被写体のためのポートレートではなく、ポートレートという概念と造形的・思考的に演じ合うという点で、同じくポートレートに焦点をあてていたヴァルターコレクションの企画展のテーマとも通じるものがあるように思いましたが、その企画展にも選出されていたZanele Muholi(南ア、ケープタウン)が選んできた写真は、南アのレズビアンのカップルを写したもの。マイノリティであり、社会的な差別も厳しい現実を背景に、自分たちの家という親密な空間で撮影された彼女達の寄り添う身体は、感覚に力強く訴える造形思考によって捉えられ、表現されていました。

(写真家のサイト:http://www.zanelemuholi.com/

今年の夏のポンピドゥーでのインド現代アート展にも出していたSunil Gupta(イギリス、ロンドン)の作品も、同じく同性愛を扱ったものでしたが、物語性を持たせているのと反比例してメッセージ性に欠け、写された状況のセンセーショナルさにだけ負っていて、写真そのものの表現の力は脆弱でした。

(写真家のサイト:http://www.sunilgupta.net/


最後の質疑応答で、聴衆の中にジャーナリストらしき女性がいて、同性愛を扱った写真に対し、非常に社会的な問題を提起しているが、ジャーナリスム写真との違いは何か、と質問しました。そのとき、寡黙そうなZanele Muholiがすぐにマイクをとり、「ジャーナリスム写真は新聞社や出版社の要請に応えて撮っている。私たちは背後に何も負っていない。新聞の向こうの世論のために撮るのではない、自己の存在論的な葛藤と問いに向かい合って撮っている。それが違いです。」とはっきり言い切ったのが、非常に印象的でした。

もちろん、ジャーナリスム写真にも自己の内なる葛藤や問いに向き合いながら撮ったものがあるとは思いますが(それが例えばLe Balが提示しようとしているもののように感じますが)、他者の視線を意識したりせず、己に向き合って撮るのだ、という毅然とした言い切りに、芸術家の心構えをみせられた思いがしました。外界と対峙しつつ、その外界が刺激する自らの精神の奥へ分け入り、痛みも全て引き受けて自己の底から表現する。自らの表現者としての宿命を引き受ける。そこに、他者が感応する力が宿り、結果的に外へと開いていく。その、内から外へと開くキャパシティーがあるかどうかが、芸術写真としての分かれ目なのでしょう。



この一連のカンファレンス企画を支援していたのはLUMA Fondationという非営利団体。

LUMA Fondationは、ビルバオのグッゲンハイム美術館を設計したアメリカ人建築家フランク・ゲーリーが、個人で活動する芸術家の革新的な芸術活動を支援するために創設したもの。南仏のアルルを拠点とし、スイスの製剤会社ロッシュ・グループの後継者マヤ・ホフマンをメセナに迎えて、SNCF(フランス国鉄)の工場だった敷地を買い取り、アルル市と提携して写真を専門とする複合文化施設の建設を構想。フランク・ゲーリーが設計した複雑な構造の塔の建設は、2011年現在も国の建設許可待ちで、まだ実現に至っていないようです。(2008年のイタリア・ビエンナーレ建築館で展示されたマケットの写真が見られます:designboom

LUMA Fondationはアルル国際写真祭にも支援団体として関わっています。個々の写真家の支援はもちろん、環境問題、人権問題、広い意味での教育と文化に関わる、領域横断的で革新的なアート・プロジェクトを支援。研究、教育、アーカイブ等の多角的な活動に加え、アートとアイディアを創造する実験的なインターネットサイトの創設も構想しているようです。


話がPARIS PHOTOからずれますが、アルルはここ数年、新しい芸術活動の拠点として躍進している感があります。今一番勢いがある出版社Actes Sudも拠点はアルル。毎年夏に開催されるアルル国際写真祭は年々活気を呈しています。古代ローマの香りを残し、ゴッホが描いた灼熱の太陽が照るアルルの今後に注目したいです。


2011.12.04 Sunday

パリ・フォト2011 レポート No.2

アフリカ写真がテーマだった今回のパリ・フォトの企画展覧会の一つが、ヴァルター・プライベートコレクションが所蔵する近現代アフリカ写真からポートレート写真を選んだ展示、Events of the self: Portrait and social identity でした。

ポートレートとはいっても、基本的にコンセプチュアルで、パフォーマンス的、非ドキュメンタリー的な、19人の写真家による75のポートレート写真が展示されています。
Sammy Baloji, Bernd and Hilla Becher, Allan deSouza, Alfred Martin diggen-Cronin, Rotimi Fani-Kayode, Samuel Fosso, Pieter Hugo, Seydou Keïta, Hentie van der Merwe, Santu Mofokeng, Zanele Muholi, J.D. 'Okhai Ojeikere, Jo Ractliffe, August Sander, Berni Searle, Malick Sidibé, Guy Tillim, Nontsikelelo, Veleko.

近代ヨーロッパのポートレート写真とも対比させながら、植民地時代、ポスト植民地時代から現代に至るまでのアフリカ社会において、社会的な変容が刻まれた記念碑的な性質を個人のポートレートに写し取るのではなく、個人もしくは集団の主観性を再定義し、そこから社会および文化的な変容の構造を視覚化しようとしたアフリカ写真を紹介する。

確かに、展示されていた各写真を振り返ると、変容する社会の中の個人の肖像というよりも、個人そのものがなによりも大きく画面に存在していて、その強烈な自己の主張の向こうに社会的な文脈が透かし浮き出ている、という感じがします。

パントマイム、ポーズといった政治的な身体概念の競演、アフリカ的なものと西洋的なものの対照、女性性と男性性というセクシュアリティの対立。
どこかパフォーマンス的なポートレートは、社会的な変容の渦中における個人の自己表現と社会的アイデンティティーの関係について問いかけます。社会の中で、他者の視線によって視覚化されるアイデンティティーに、合致する、あるいは相容れない自己表現という、自己の出来事。それがEvents of the selfという自己演出のポートレートの多様な形として、この展覧会で紹介されていました。
一見ただのポートレート写真のようでありながら非常にコンセプチュアルで、現代アフリカ写真の可能性を垣間みせます。


ヴァルター・コレクションはアルトゥール・ヴァルターというドイツ人の個人コレクターが1990年代から集めた近現代写真コレクションで、特に現代アフリカ、アジア(中国)写真の個人コレクションとしては最も重要なものの一つに数えられます。
2011年にドイツのニューウルムに美術館を、ニューヨークにプロジェクトスペースをオープンさせたのを機に、今後、展覧会、研究助成、出版事業、ウェブサイト運営を通して、現代アート写真の普及・受容の促進に関わっていくようです。
オフィシャルサイトでは、所蔵する写真家の写真が閲覧できます(Artistsのエントリーから入って名前をクリックすると写真が出てきます)。

以前こちらで紹介したDavid Goldblatt, Santu Mofokengらの写真も多数所蔵しており、彼らを含む14人の写真家による風景写真を集めたAppropriated Landscapesという本がSteidlから出版されています。

もう一つのアフリカ写真に注目した展覧会としては、Rencontres de Bamako アフリカ写真ビエンナーレで選出された12人の若手写真家の作品が展示されていました。


2011.11.12 Saturday

パリ・フォト レポート No.1

PARIS PHOTO 2011

2011/11/10-13


第15回目の開催を記念する今年のPARIS PHOTOは、グラン・パレに場所を移して行われました。

23カ国から117のギャラリーが参加し、19世紀のクラシック写真から現代写真まで、写真の世界的なパノラマが提示される年に一度の機会です。



昨年までのルーヴルの地下の会場は、隣接しているものの3箇所に会場が区分けされていて、かといって区分けに特にテーマがあるわけではなく、迷宮のようでしたが、グラン・パレの会場はすっきりとして各ブースの場所を特定するのも易しく、観やすくなりました。高い天井が空間に開放感をもたらしています。



今年はアフリカの写真家に焦点が充てられ、南アのギャラリーがブースを出しているほか、アフリカ写真ビエンナーレで注目を集めた12人の若手写真家の写真が展示されています。

企画展のアルトゥール・ヴァルター個人コレクション展でも、アフリカの写真家の作品が主に展示され、アフリカ写真史を担う各世代の展望を提示する興味深い展覧会となっています。この企画展は、新しい才能を発掘する個人コレクターの担う役割の重要性を強調することも目的としています。



もう一つの企画展では、ロンドンのテートギャラリー、ニューヨーク国際写真センターローザンヌのエリゼ写真美術館が最近収蔵した新たな写真コレクションを紹介する展示が行われています。


これら企画展は各ブースの立ち並ぶ間に自然に組み込まれ、かつテーマがはっきりして、展示会場にメリハリを与えており、この点でも去年よりずっと観やすくなったと思います。



PARIS PHOTOにはギャラリーのみならず、出版社も参加しています。今年は、写真に関わる本のクリエイティビティーに注目するべく、この15年間に出版された写真本から60冊が選出して展示され、その中から「パリ・フォト本」賞が決定されるそうです。

写真家による写真集へのサイン会も行われ、私が行ったときにはSteidlのブースにWilliam Egglestonが来ていました。



2011.11.09 Wednesday

知覚の不思議

In_Perception

2011/09/24-2011/12/09


104-CENTQUATRE

5, Rue Curial 75019 Paris

メトロ:Riquet, Crimée (7番線), Stalingrad (2, 5, 7番線)

開館時間:水、土、日 14-19

   金 18-21時

入場料:一般 5ユーロ 割引 3ユーロ


パリ市が運営する現代アートの空間、CENTQUATRE(サンキャトル)で、3人の造形アーティストたち(Leandro Erlich, Ann Veronica Janssens, Lawrence Malstaf)による、知覚に訴える5つのインスタレーションが楽しめます。

観覧者が空間の中に入り込んで味わう、体験型のインスタレーション。不思議な空間の中で身体感覚を総動員し、精神だけが己を司っているのではないことを再認識してもらうのが狙いのようです。


例えば、濃い霧が立ちこめる部屋の中に迷い込むインスタレーション。あまりに霧が濃いので、手を伸ばした先が既に見えなくなるほどです。霧が視界を遮り、見えない壁に阻まれたように、方向感覚が狂います。霧の色は何種類かに変化し、色によって空間の深度の感覚が変わるのも不思議です。

一度に沢山の人が入ると、ぶつかって危ないので、入場制限があり、出入り口で順番を待ちます。

クラクラした顔、キラキラした顔、不思議な顔、色んな表情で霧の部屋から出てくる人たちを観察するのも面白い。


他にも、鏡による錯覚で遊んだインスタレーションなど。例えば、床に作られたパリのアパルトマンのセットの上に寝転がって手足を動かすと、鏡に映った像ではアパルトマンは垂直に建っていて、寝転がった人はアパルトマンにぶら下がっているように見えます。床の上に立つと、鏡像では建物の壁に向かって垂直に立って歩いているかのよう。

現実の空間ではできないアクロバティックな動きを演じることができ、床の上で動く人も、周りで観ている人も楽しめます。


CENTQUATREはかつて葬儀場として使われていた広大な空間を複合文化施設に改造した場所。現代アートの企画展示のほか、若手クリエーターの展示会やアーティストによるパフォーマンスが随時開催され、本屋、カフェ、子供向けのアトリエなども併設されています。




2011.10.06 Thursday

緑の中で出会うのは

L'esprit des lieux
Le dialogue entre art et nature...

03/06/2011-12/2011


パリの郊外、エソンヌ県の県管轄地区シャマランドで現代アートの展示が定期的に行われています。RERのC線の南端、Chamarandeの駅で降りて徒歩3分。
歴史的建造物に指定されている瀟洒なシャトーと広大な庭園が目の前に開け、美しい自然の中を散策できます。

12月末までは、「場の精神ーーアートと自然の対話」という題の通り、庭園の中や森の中で、自然との対話を試みる作品に出会うことができます。


現在の環境問題を問いかけるようなものが多いように感じました。
たとえば、Nature morteという大きなアルファベット文字がそのまま、庭園の中におかれ、その背後に伸びる自然の景色と同化している。絵画が好きな方はご存知かと思いますが、nature 「自然」という女性名詞と、morte「死んだ」という形容詞から構成されているこの熟語は、絵画の一ジャンル、日本語でいう「静物画」を意味します。ゆえに一見、この文字は風景を絵画とみなしたタイトルのように機能しているのかとも思わせますが、このコンテクストの中では、nature morteはそのまま字義通りに「死んだ自然」とも読むことができる。巨大なアルファベットが指し示すはずの本来の意味は、今、目の前の自然の風景という「場」の中で、敢えて字義通りの意味にすり替えられる。この言語記号の向こうに広がる自然が、いつか消滅してしまう日を考えさせる警告として、この文字は未来を指向していました。

シャトーの中でも定期的に現代アートの展示が行われています。私が訪れた時は、En Piste!というサーカスを主題にした展示を観ることができました。

小さな森や池もあり、天気のよい日に、パリを少し離れて自然の中でのんびりするのにぴったりな場所です。パリからシャマランドの駅まではRERで約1時間弱です。






2011.10.06 Thursday

Jane Evelyn Atwood

Jane Evelyn Atwood
Photographies 1976-2010

2011/06/29-2011/09/25

メトロ:1番線 Saint-Paul
入場料:一般 7ユーロ、 割引 4ユーロ
開館時間:11-20時
  月、火、祝日は休館


会期は終了してしまったのですが、アメリカ人の写真家、ジェーン・イヴリン・アトウッドの初の回顧展となる展覧会を、マレ地区にあるヨーロッパ写真美術館で観てきました。35年間の写真家の軌跡を振り返り、主に6つのテーマから構成されていました。盲学校の生徒、売春婦、刑務所の囚人、エイズ患者、地雷の被害者、ハイチ。マージナルな社会で、一般社会からはじき出され、不条理と不平等に向き合いながら生きる人たちを、正面からとらえた写真ばかりでした。重い主題ばかり取り扱いながらも、勇敢に、譲歩せずに現実と対峙する写真家。ところどころで引かれていた写真家の言葉が、印象的でした。
「写真を撮ることに何の意味があるのか、と問うこともあった。だが、撮らねばならないと思った。」
厳しい現実を目の当たりにして、ただカメラを構え、シャッターを切ることに何の意味があるのか。そう問うことはごく自然な、人間的な感情だと思います。しかし、その現実を偽りなく撮ること、それこそ、現実をそのままうつしとる写真という媒体の力である。レンズという目で、目の前の事実を捉え、伝える。その使命を引き受け、葛藤の中で己の精神を焼くようにフィルムに焼き付けるからこそ、その写真にこれほどの力が宿るのだろうと思います。

写真家のオフィシャルサイトはこちら:

2011.07.17 Sunday

影を追い続けて

Santu Mofokeng


2011/05/04 - 09/25

Jeu de Paume
メトロ:Concorde(1, 8, 12番線)
開館時間:火曜日 12-21時
  水-金 12-19時
  土日  10-19時
入場料:一般 8,5ユーロ 割引 5,5ユーロ

Katse Dam - Lesotho, 1996, Essai: Landscape and Memory 
Courtesy Lunetta Bartz, MAKER, Johannesburg© Santu Mofokeng


ジュ・ド・ポームにて、フランスでは初の回顧展となる、南ア出身の写真家Santu Mofokengの写真展が開催中。200以上の写真、写真家の文章、関連資料が集められ、Mofokengの写真世界を一望することができます。30年の間にしたためられた写真エッセーからの抜粋は、写真家の写真に対する深い思考の跡を示し、南アの都市や農場の日常、宗教儀式、そして風景の、影を追い続けた彼の写真の数々に光を投げかけています。

Santu Mofokengは南ア出身の写真家。1970年代にストリート・フォトグラファーとして写真を撮り始める。1981年、ヨハネスブルグでBeeld紙の写真ラボのアシスタントとして雇用され、翌年から、鉱山組合新聞の写真ジャーナリストとして働く。1985年、写真ドキュメンタリーによってアパルトヘイト政策に反対することを目指し1982年に創設された写真家団体、Afrapixに参加。彼の作品はWeekly(現在はMail&Guardian)に掲載される。
しかし、写真ジャーナリストとして締め切りという時間制限に間に合うように撮影するスタイルは彼に合わず、新聞ではなく、本を媒体として念頭においた写真撮影を始める。

アパルトヘイト政策が激しさを増した時代、Mofokengは写真ドキュメンタリーよりも複層的な語りを可能にする写真エッセーという形式を選び、1986年に最初の写真エッセーとなるTrain Churchを出版する。1988年にはDavid Goldblattと歴史家Tim Couzensの勧めでAfrican Studies Insitute(ASI)に参加する。そこで彼は約10年間、研究者兼写真家として働き、写真エッセー、Rumours/The Bloemhof Portfolioを完成させる。1990年に、農場での生活、コミュニティーの日常を撮影した、ヨハネスブルグ・マーケット・ギャラリーでの展覧会、Like Shifting Sandの成功により、Ernest Cole奨学金を受け、ニューヨークのInternational Center of Photography (ICP)で一年間勉強する機会を得る。

1996年から、MofokengはChasing Shadowsと題する写真エッセーを開始し、現在も制作は続行中である。この企画の中で、彼は宗教儀式と、それが催される場所に注目し、記憶と風景と精神性の関係について問いを投げかけている。

MotoulengやMautseの洞窟で撮影されたこれらの写真は、その場所の造形の特異性と、宗教儀式の高ぶった雰囲気が醸し出す奇妙な超現実性から、観る者の関心を惹きます。その画像は、ぼやけていたり、儀式で焚かれる香の煙で全てが見えなかったり、何かが意図的に隠されている感覚を与えます。写真家は、その場にいながら、レンズの向こうの対象に近づけない、そんな印象を受けます。

「この撮影作業の中で、私は現実が自由に非現実と混じり合う空間に入り込むことができました。そこで、私の写真の技術に関する知識は最後の砦へと追い込まれたといえます。たしかに画像は、儀式、呪物、そして儀式の場所を写し出していますが、はたして、私があの場で動いているのを目の当たりにした集団的意識というものの本質を、フィルムに焼き付けることができたのか、私には確信がありません。おそらく、私はそこで、写真というイマージュにはとらえられない何かを、おそらく、影を、追いかけていたのではないかと思うのです。」

写真家自身の言葉が裏付けるように、この宗教儀式シリーズの前に立ったとき、観る者は、わざとピントがずらされているような、微妙にぼやけた対象を大きく写し出した写真に、ある種の居心地の悪さ、奇妙な磁場の抵抗を感じます。なぜ、ピントが、対象ではなく、対象の背後の砂に合っているのか。なぜ、儀式を撮りながら、人がぼやけていて空間にピントが合っているのか。まるで、人の生というものの儚さと、そこに佇む風景の普遍性が、不思議な神秘的雰囲気の中で、対照的に強調されているかのようです。

Mofokengは風景への関心を、Trauma LandscapesLandscape and Memoryで掘り下げています。歴史と記憶に刻まれた場所を撮影対象に選び、風景の概念そのものについて問いかけている。アパルトヘイト政策の間、立ち入ることができなかった南アの区域のほか、ヨーロッパやアジアの、集団の記憶に刻まれた場へ、彼は分け入っていきます。

特に風景写真が素晴らしかった。Michael Kennaを思わせるような静かな風景写真。しかし、Kennaの風景写真の静謐さとは違う、隠された言葉のざわめきがあります。
たとえば、アウシュビッツの風景を撮影した写真シリーズを前にしたとき、風景写真の写真としての造形の美しさに魅せられると同時に、主題と照らし合わせて、この写真を「美しい」と言っていいのか、考えさせらました。主題の問いかける重みを裏切る写真の美しさ。こういうときの美は残酷としかいいようがなく、数ヶ月前にアンリ・カルティエ=ブレッソン財団写真美術館で観た、同じく南アで活動したDavid Goldblattの写真の美しさを思い出しました。

主にモノクロームの写真の、丁寧に焼き付けられた写真の肌合いも、主題とは独立して存在する写真の美しさを構成しています。

9月25日まで。この夏パリにいらっしゃる方で写真に興味がある方にはぜひお勧めしたい写真展です。




2011.06.10 Friday

写真映画の宵

Les nuits photographiques

2011年6月3, 10, 17, 24日
場所:Parc des Buttes Chaumont (入り口 place Armand Carrel)
メトロ:Laumière (5番線)
時間:20h-00h30

ビュット・ショーモン公園で6月の毎週金曜日の夜20時から開催される写真映画(film-photographique)フェスティバルの告知を見つけました。
film-photographiqueとは、複数の写真をベースに映像として仕上げたもの、もしくは写真と映像を組み合わせたものを指すようですが、その形式は様々です。
新しい才能の発掘とプロモーション、写真映画という形態の創作援助と普及を目的として、セレクトされた作品の上映会を、バカンスを目前にした初夏のパリの公園で、音楽とともに野外で楽しもう、という趣旨のようです。こちらから初日のビデオ映像が見られます。
映画祭の始まる2時間前、18時から、ラディオ・ノヴァの共催でジャズ、レゲエ、ヒップ・ホップ、エレクトロなどを中心にした音楽を楽しめます。
文化的な催しを巧みに日常のイベントの一つに組み込んでしまう、パリらしい企画。



| 1/3PAGES | >>

Home 表紙の一枚 山の読書便り 本棚から レンズの旅 明日の写真 パリ アート手帳 本と写真blog 「本と写真」のこと mail